2018.7.9
おの散歩第3弾、晴海ターミナル編です。 社長がロードバイクにまたがり、写真を撮ってきてくれました! いつもありがとうございます!
本日のルートは、 *** 豊洲でタワーマンション群を眺め、晴海埠頭へ。 オリンピック選手村の工事などを見学。 客船ターミナルを経て築地本願寺。 佃島を眺めて帰路へ。 *** となっています。 |
7月8日の日曜日は、東京は良いお天気でした。
風もあって、ロードバイクは気持ちよかったそうですよ。 風を切って走るって、いいですねー。
豊洲から芝浦工業大学を経て晴海へ。 豊洲は相変わらずのマンション群。 お子様連れの若いパパ・ママでショッピングゾーンは 賑わっていたことでしょう。 アーバンドックららぽーと豊洲は、ドッグランがあるので ペット連れにもありがたいですね。
芝浦工業大学をチラ見して、晴海へ。 選手村の建設が、ガンガン進んでいますね! 1年後にはいくつものタワマンが出現しているなんて、 すごいな~って思います。 |
晴海客船ターミナルへ到着。
待合室の中は、こんなふうになっているんですね。 初めて見ました! 遠くにレインボーブリッジも見えて、気持ちよさそう!
そしてインスタグラムでよく見かける海の中のモニュメント。 ここだったんですね~。 インスタでは夕日や夕焼けを背景によく撮られていますが、 青空をバックのこの写真も、なかなかいいと思います~。 |
海を眺め空を眺め雲を眺め。
リフレッシュしてユリカモメも眺め。 あ、トリトンスクエアが見えてますね~。 広い景色を眺めると、それだけで癒される~。
ふう、と一息ついて帰路につきます。
築地本願寺を眺め、永代橋を渡り佃島を眺めます。 ここは日本のマンハッタン島と呼ばれたタワマンの さきがけのエリア。 さすが堂々たる景観ですね。
ふと気になって、佃島の歴史をググってみました。 ちょっと長いので、興味のない方はスルーしてね。
Wikiによると。。。
*** 江戸期[編集]中世において隅田川の河口部に位置していた島(文亀[1501-04]古図にも見られ、森島、鎧島などと呼称されていた)を、1626年、旗本石川八左衛門重次が徳川家光から拝領し、その屋敷を構えたことから、その島が「石川島」と呼称されるようになった[6]。 一方、徳川家康と同時期に江戸に移住した摂津国の漁夫たちが、1645年、石川島近くの砂州に築島して定住することとなり、この島を故郷である佃村にちなんで「佃島」と命名した(古地図には「田」の字の島が描かれ、現在の地図においても同様の形状が佃一丁目の一部に確認できる)。 江戸(現在の東京)の佃島の漁民の故郷は大阪の佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)である。本能寺の変が起きた時、徳川家康はわずかな手勢とともに大坂、堺にいた。家康は決死の覚悟で本拠地の岡崎城へと戻ろうとしたが、神崎川まで来たところで川を渡る舟が無く進めなくなった。そこに救世主のごとく現れたのが近くの佃村の庄屋・森孫右衛門と彼が率いる漁民たちで、彼らが家康らに漁船を提供した。その結果、家康らは生きて岡崎に戻ることができた。後に家康が江戸に入った時、命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えたのである。[7] 現在の佃1丁目・佃2丁目北部は、上記の石川島と佃島の場所に該当する。 明治期以降[編集]水戸藩により創設された石川島造船所(現在のIHI(旧・石川島播磨重工業)の前身)が1876年(明治9年)に民間に払い下げられ、それが1979年(昭和54年)に操業停止するまで、旧来の佃島の部分を除き現在の佃の多くの部分はその敷地であった。 1986年(昭和61年)から、都心回帰の促進を図る目的で、8棟の超高層マンションを中心とする住宅群「大川端リバーシティ21」の整備が開始された。 個々の高さやデザインを少しずつ変えながらも全体として統一された外観を有し、明石町にある聖路加ガーデンと共に隅田川沿いのスカイラインを形成することになったリバーシティ21への評価は高く、開発主体である三井不動産の広告に度々使用される[8]など、都心部における居住エリア整備の成功事例と認識されている[9]。 *** とのことです。
江戸時代から続く佃島。 400年ですよ。 すごいな~って思います。 |