11月9日、今日も秋晴れの良い天気。
風はちょっと冷たいけど、日差しが暖かいので 心もウキウキ。
11月3日に行ってきた日比谷公園の 菊の展示会の写真の整理ができたので、 ちょこっとご紹介です。
菊の事はよくわからないけど、1本の茎から 3本の芽を伸ばして、ひと鉢に3個の花を咲かせるのが コンテストのスタンダードみたいです。
花の種類も、厚もの管もの平ものなど花の形や 大菊、中菊、など大きさや、盆栽風に仕立てて 花をつけたものなど、色々ありました。 どれも丹精されていて、とても見事。 賞を取るか取らないかの分かれ目なんて、 素人にはさっぱりわかりません。
菊の展示はすぐ終わってしまうので、 今までなかなか見に行けなかったのですが、 今年はタイミングよく鑑賞できて ちょっと嬉しい~ヽ(´▽`)/
ところで。。 ひな壇に並んでいる菊を撮るのは、結構難しい。 ということに気がつきました。
ただただヘタの言い訳なんですけどね。。 来年はもっと綺麗に撮る! とリベンジを誓い&反省しつつご紹介です。 |
【菊】ウィキより~
キク(菊)は、キク科キク属の植物。ここでは、狭義のキク(イエギク、栽培ギク)について詳述する。日本で観賞用多年草植物として発展した品種群を和菊、西ヨーロッパで育種されて生まれた品種群を洋菊と呼ぶ[1]。 秋に咲く花であるが、短日性植物で、電照などを用いた作型の分化により、周年供給されている)。食用にする「もってのほか」などの品種もある。花言葉は「高貴」である。観賞園芸的には和菊、生産園芸的には洋菊が中心に栽培されている。また、切花としては温室での電照栽培で周年出荷されている。バラ、カーネーションとともに生産高の多い花卉となっている。 日本では、薬草や観賞用植物として平安時代より用いられ、宮中では菊の節句とも呼ばれる重陽の節句(旧暦9月9日)が明治時代まで行われ、現在でも皇室園遊会(観菊御宴)として行われている。日本で菊の栽培が盛んになったのは、栽培のプロセスが冬に芽をとり、春に植え、夏に成長させ、秋に観賞するといった具合で、イネの栽培と類似していることが影響しているとの説もある。現在では各地に愛好会ができる一方で、秋には、それらが主催の品評会が開かれている。 物品への意匠として用いられることも多く、後鳥羽上皇が身の回りのものに施したことにより天皇および皇室の紋となったといわれ[2]、鎌倉時代には蒔絵や衣装の文様として流行した。日本の南北朝時代以降には天皇より下賜されることにより公家や武家の間で家紋として使用されるようになった。 世界的には、フランス、ポーランド、クロアチア等の一部のヨーロッパ諸国において白菊が墓参に用いられ、中国、韓国でも葬儀の際に菊が用いられることが多い。日本でも古くから仏花や献花として菊が使用されてきた(なお、慣習として故人への供花とされ、病室への見舞いの花としては忌避される)。 日本には350種ほどの野菊が自生するが、栽培菊は日本になかった。『万葉集』には157種の植物が登場するが、菊を詠んだ歌は一首もなく、飛鳥時代・奈良時代の日本に菊がなかったことを暗示する[5]。中国から奈良時代末か平安時代初めに導入されたと推定される[6]。平安時代に入り、『古今和歌集』あたりから盛んに歌にも詠まれるようになった[7] 春のサクラに対して日本の秋を象徴する花となるが、それが決定的になったのは、鎌倉時代の初め後鳥羽上皇が菊の花の意匠を好み、「菊紋」を皇室の家紋とした頃からである。また、九州の豪族菊池氏も家紋に「菊花」もしくは「菊葉」を使用している 育種が一気に展開したのは江戸時代から、特に元禄期(17世紀末)以降である[8]。正徳頃からは「菊合わせ」と呼ばれる新花の品評がしばしば行われた。江戸、伊勢、京都、熊本などでそれぞれ独自の品種群、系統が生じた。「三段仕立て」などの仕立ての様式やその丹精の仕方なども発達し、菊花壇、菊人形など様々に仕立てられた菊が観賞された。これらは江戸時代から明治、大正時代にかけて日本独自の発展をした古典園芸植物の1つとして]、現在では「古典菊」と呼ばれている。全般に花型の変化が極めて顕著であるのが特徴で、その中でも「江戸菊」は咲き初めから咲き終りまでの間に、花弁が様々に動いて形を変化していく様を観賞する。このように発展した日本の菊は幕末には本家の中国に逆輸入され、中国の菊事情を一変させた。明治時代になると、花型の変化よりも大輪を求める傾向が強まり、次第に「大菊」が盛んになった。花型としては厚物、管物、大掴み、一文字などに収束し、花の直径が30センチメートルに達する品種も現れた。この傾向は菊を日本の象徴として見る思想と関係していると思われ、戦後にまで続いている。 |
菊の花にも長い歴史があるんですね。
写真が撮りにくいなんて、文句言ってごめんなさい。 |